台風の影響でチュニジア料理・クスクスへ行けなくてしょげているBYRSAMの代表の細川です!
紀元前814年に建国したカルタゴは西地中海世界で最も繁栄しました。しかし新興国ローマとの覇権争いに敗れ、紀元前146年に地上から滅び去ってしまいます。
そして1世紀を経て、カルタゴはローマ帝国初代皇帝アウグストゥスによって再建され、再び西地中海世界で商業の中心地となるのでした。
もしかしたら、現在の香港、NYに近いのかもしれませんね。
それでは今回は、大国カルタゴの遺跡を歩いてみましょう!
1.カルタゴを求めて3000里
もしカルタゴに行きたくなった場合、ターキッシュエアライン、エミレーツ航空、カタール航空のいずれかでチュニジアへ行きましょう!
カルタゴはチュニジアの北東部、現在の首都チュニスから約10kmほど離れた場所にあります。
古代世界ではカルタゴがチュニジアの中心地でした。10世紀頃に2回目の滅亡を経験し、それ以来チュニスが首都として定められました。
そんな栄華の残り火であるカルタゴへ行くためには、チュニスのブルギバ通りの端にあるメトロか、バスで向かいます。
ハンニバルが吸った空気の子孫がご存命のため、よほどの覚悟を決めなければ理性が保てません。注意しましょう。
降りる駅はいくつかありますが、カルタージュ・ハンニバル駅で降りましょう。
ハンニバル駅なので。
2.カルタゴのテルマエ!アントニヌス浴場
駅を降りると早速、ハンニバルが子供の頃に眺めていたに違いないエメラルドグリーンの海が広がっているじゃあありませんか。
海に向かって大通り沿いを歩いていくと、最初にあるのが【アントニヌスの共同浴場】。
海を背景に建てられた広大な浴場で、2世紀に皇帝アントニヌス・ピウスによって建てられました。
彼はローマ帝国最盛期の皇帝の一人です。
アントニヌスの共同浴場は、2階建ての建物で、高さは推定30m。これは10階建てのビルに相当します。
とても豪華な施設で、更衣室、温泉、水風呂、サウナ、プール、談話室、トイレなどの部屋がなんと!100以上も左右対称に配置されていました。
壁一面をフレスコ画で彩られ、柱には彫刻、床には鮮やかなモザイクが敷き詰められていました。幾何学模様から、神話などを題材にしたタイルなど実に様々です。
私たちにとって想像もつかないかもしれませんが、古代ローマ時代にはすでに排水溝が敷設されていました。これは浴場内の排水溝です。
そしてこの先にある柱はなんと…
3.カルタゴ市民の住居
そんなアントニヌスの共同浴場の近くには、カルタゴの住宅街が広がっています。
遺跡の規模は大小様々ですが、特に円形劇場の近くにある住宅街は圧巻。さながら、カルタゴ版ポンペイといっても差し支えありません。
どれくらい残ってるのかな〜と歩き始めると、すでにこの時点で普通の住宅街。
ヨーロッパで見たことのあるような景観が広がります。
この住宅街は海へ下るように都市が設計されており、階段上に造られた土台なども残っています。
ローマ帝国時代の都市設計と、滅亡以前の都市設計は異なると思いますが、少なからず紀元前150年代には30万人の市民がこの辺りで暮らしていました。
私も今から暮らしたい。
ローマ帝国時代のお金持ちの家で、列柱回廊と中庭、とても大きなモザイクが張り巡らされた豪勢なお屋敷だそうです。
4.カルタゴの海
お金持ちの家で休憩した後、ハンニバルが吸った潮風の子孫を味わいながら海へ下っていきます。深呼吸すれば腹が膨れるというもの。
見てください、この透明度。
とんでもなく透き通っているではありませんか〜〜!
ハンニバルが子供の頃、ここで水泳していたと思うと涙が止まりません。
ちなみに古代ローマ人は、父親が水泳を教えていました。中でも「カルタゴ滅ぼすべし」と唱えた大カトーは良き父親だったと伝えられ、「私が息子に水泳を教えたんだ」とドヤ顔している逸話があります。
5.2800年前の港
そしてカルタゴ人の繁栄を支えたのが、この場所。港です。
今ではお綺麗な湖にしか見えませんが、かつては約1km近くもある港でした。
古代時代には商業港と軍港に分かれており、商業港には倉庫街が、軍港には220隻の船が係留し、ロープで船を丘に引き上げる設備も整っていたそうです。
さらに、今ではとても長めの良い港が広がっていますが、かつては防壁で囲まれ、危険が迫った時には幅20mの水路にある鉄の扉を閉ざすことができました。
紀元前146年にカルタゴが滅ぼされてからはずっと荒廃していましたが、軍港は2世紀になってようやく再建されました。現在残っている遺構はローマ時代のもので、上記の再現図のようなものだったと推測されています。
インスタグラムでもチュニジアの動画をアップしているので、ぜひ見てみてください!
次回はカルタゴの伝統・宗教を中心に遺跡の紹介をしたいと思います!