チュニジアへの愛と将軍ハンニバルへの忠誠心で生きてるBYRSAM代表の細川です。

前回はチュニジアもといカルタゴの建国〜第一次ポエニ戦争までお話ししましたね!

カルタゴは紀元前500年までに西地中海の大国として覇権を取り、シチリアの完全支配を目指します。その時のライバルが故事『ダモクレスの剣』や『走れメロス』の由来になった大国シュラクサイ。

カルタゴはついにシュラクサイを相手に勝利を収めることができませんでした。

紀元前264年、シチリアのある問題児集団によって第一次ポエニ戦争が始まり、敵はシュラクサイからローマへ、
そしてシチリアを巡る問題から地中海の覇権をかけた大戦争へ発展します。

そして紀元前241年、敗北を喫したカルタゴは賠償金支払いのため、スペインへ向かうのでした。

 

 

 

  

1.バルセロナはカルタゴ人によって建てられた

紀元前241年に1000隻以上の船が沈んだ第一次ポエニ戦争が終わり、
制海権を失ったカルタゴは最初の賠償金支払いに苦労しました。

というのも戦争が終わったのち、北アフリカで内乱が起こり、さらにサルディニアとコルシカの領有を失って追加の賠償金まで背負わされたのです。

そこでカルタゴ人は制海権を取り戻そうと考えるのではなく、古くから姉妹都市があるスペインの開拓へ向かいました。

当時のスペインは銀の産出地でした。
イベリア遠征へ向かったハミルカルも下へローマ人の使節が訪れると、「賠償金を払うためにせっせと労働しているんだ」と皮肉ったそうです。

そしてハミルカルが新たに開拓した都市の一つがバルセロナです。

バルセロナは建設したハミルカルの家名「バルカ」に由来し、直訳すると「バルカ家の庭」を意味します。古代ローマ時代には「バルキーノ」と呼ばれていました。

 

2.ハンニバルのおねだり

ハミルカルには可愛い息子がいました。名をハンニバルと呼び、彼はローマ人に最大の敵として記憶されることとなります。

第一次ポエニ戦争が当時最大規模の戦いならば、第二次ポエニ戦争はローマ史上最大の危機と言っても過言ではありませんでした。

時に、第二次ポエニ戦争はハンニバル戦争とも呼ばれています。
戦争当初、ローマ人が動員できる70万人の兵力に対し、ハンニバル戦争を通じて30万人が戦死しました。加えて、400もの農村が焦土となったとされています。

これだけの大混乱を引き起こしたハンニバルにも可愛い子供時代がありました。

父親のハミルカルがスペインへ出発しようとした頃、ハンニバルはまだ9歳でした。彼は「自分もスペインへ連れて行ってほしい!」とねだったので、父は息子の右手を取って、

「どんなことがあってもローマ人の味方にならない」

と約束させました。

この逸話には、ねだったバージョンと、わがままを言ったバージョンと、強い意志で誓ったバージョンがあります。

私は「お父さん連れてって〜〜〜」と床を転がるようにわがまま言ったに違いないと考えています😉

 

3.第二次ポエニ戦争の始まり

ハミルカルがスペイン支配を拡大し、紀元前229年に義理の兄が後継しました。義兄はスペイン支配を確固たるものにし、そして紀元前221年にハンニバルが将軍となります。

指揮権を継承したハンニバルは早々に軍事行動を開始し、紀元前219年にバレンシアの北にあるサグントゥムを陥落させます。

これをきっかけにして第二次ポエニ戦争が始まりました。

古来より、なぜハンニバルが戦争を始めたのか?について議論されていますが、いまだに決着がついていません。

ローマ人を憎んでいた説、サルディニアとコルシカの領有権を不当に奪われた怒り説など様々です。 

 

4.ハンニバルのアルプス越え

ローマ人の使節がカルタゴ政府で

「この中に戦争と平和を入れてきた!諸君の求める方を置いていこう!」

と言うと、カルタゴ人はローマ人が決めれば良いと返しました。使節は「では戦争を!」と叫び、このようにして開戦しました。

第二次ポエニ戦争当初、ローマは軍団の指揮権を持った執政官の一人を北アフリカに、もう一人をスペインに派遣する作戦を立てていました。

ところがハンニバルはスペインからローマまで沿岸部を通るルートではなく、アルプスを越えて、突如、北イタリアに姿を現します。

せっかくなので、ハンニバルのアルプス越えの演説を紹介します!

兵士諸君、私が不思議でならないのは、
百戦錬磨の君たちがアルプスを前にして恐れを抱いていることだ。

我々が住む大地で天に届くほど高い場所はなく、
アルプスなど単に高い山に過ぎない。
ローマ人の横暴に怒る諸君は、腑抜けたガリア人より劣っていると認めるのか?
彼らが越えた山を前に、怖気付くのだろうか?
さあ、諸君。選べ。
ガリア人より劣ったものと認めて引き下がるか、
それとも希望を持ってイタリアに入り、永遠の都ローマを陥落させるか。
このどちらかを選ぶがいい。
リウィウス『ローマ建国史』アルプス越えの演説の要約

5.カンナエの戦い

アルプスを越えたハンニバルは次々とローマ軍を撃破しました。その中でも、ハンニバルの名声を不朽にしたのが「カンナエの戦い」です。

紀元前216年8月2日、カンナエ平原と呼ばれる場所で7万人ものローマ軍が全滅しました。さらにこの戦いでローマの支配者層である元老院議員が80名近く戦死しています。

たった半日の出来事でした。

カンナエの戦いでの死傷者数は古代世界最大規模で、1日で同数が死傷するのは第一次世界大戦最大の会戦であるソンムの戦いを待たねばなりません。

このカンナエで、アエミリウス・パウルスという執政官がいました。
彼はある人物から

新たな戦地はローマ史における悲劇として有名になるだろう。
私の予想が外れて、軍事知識のなさを非難されることを望むばかりだ。
しかし、端的に言おう。

君はハンニバルと戦ってはならない。ハンニバルと戦わず、消耗させることだけが唯一の活路だ。
いいか、君は世間から臆病者だと言わしめよ。
全ては性急ならざる者だけが、ハンニバルに打ち勝つのだ

 

これに対してパウルスはあまり嬉しそうな顔をせず、

あなたのおっしゃる事は全て正しいが、実行は難しい。

と呟きました。
そして同僚の執政官がハンニバルの策略に引っかかって会戦に挑んでしまい、8月2日、

ルキウス・アエミリウス・パウルスはこのカンナエまで生き、
このカンナエで死ぬるが、ファビウス殿の忠告は片時も忘れなかった。
このようにファビウス殿に伝えよ

 

と言って戦死しました。

このパウルスが遺した「ファビウス」が、ハンニバル戦争の後半で重要な人物となります。

 

それでは次回の配信は8月2日、カンナエの日になります!
カンナエに勝利したハンニバルはどのような行末を辿るのか?ぜひ楽しみにしていてくださいね!

細川美優