前世はハンニバル軍の傭兵だったに違いないと確信しているBYRSAM代表の細川です。

 

紀元前218年に始まった第一次ポエニ戦争で、将軍ハンニバルは大胆にもアルプスを越えてイタリア半島に侵入しました。

ハンニバル軍は快進撃を続け、紀元前216年8月2日のカンナエの戦いで7万人ものローマ軍を5万人の兵士で全滅させます。
死傷した7万人の中にはローマの支配者層である元老院議員が80名近く戦死しました。

現代で例えるならば、国会議員が80名戦死するくらいの出来事です。

そんなハンニバルの作戦は順風満帆のように見えました。
ところがハンニバルは戦略の要であるローマと同盟を結んでいる都市の解体に難航し、戦争は泥沼化していきます。

 

 

 

 

  

1.「のろま」と呼ばれたファビウス・マクシムス

7万人のローマ軍を全滅させたカンナエの戦いは、ハンニバルの名声を不朽のものとしました。戦場を生き残ったローマ兵はわずかで、司令官も例外ではありませんでした。

時に、7万人の兵士を指揮していた総司令官(ローマでは執政官と呼ぶ)アエミリウス・パウルスは、

 

ルキウス・アエミリウス・パウルスはこのカンナエまで生き、このカンナエで死ぬるが、ファビウス殿の忠告は片時も忘れなかった。このようにファビウス殿に伝えよ

 

と言って戦死しました。

このファビウスが遺言を託した「ファビウス」が、ハンニバル戦争で最も重要な人物となります。

 

 

ファビウスは時に「クンクタトール」と呼ばれます。これはラテン語で「グズ」とか「のろま」を意味し、いわゆる「のび太くん」のようなあだ名です。

彼はハンニバルと正面から戦っても勝てないと理解していました。一方でハンニバル軍は常に略奪をしなければ軍隊を維持できない弱点を抱えていました。

そこでファビウスは名付けて「戦わずにハンニバルを追い詰めよう作戦」を展開します。

カルタゴ軍につきまとうが攻めてくれば引く、相手が引けば戦うを繰り返すのです。
さらにハンニバル軍の補給路を立つために、先回りして農地を焦土化することも厭いませんでした。

当然、ファビウスに批判の声が浴びせられ、この時に「のろま」を意味するあだ名をつけられてしまったのです。

けれどもカンナエの戦いで惨敗したローマは、ハンニバルと戦っても勝てないことを痛感し、ファビウスが正しいことを認めざるを得ませんでした。

 

 

2.脳筋な将軍がハンニバルを疲弊させた

ファビウスの他に、もう一人重要な人物がいます。

名をマルクス・クラウディウス・マルケルスといい、彼はファビウスの作戦を誰よりも忠実に実行しました。

マルケルスはローマ史上3人しかいない最高の武勲「スポリア・オピーマ」を賜った武人で、勝とうが負けようが関係なくハンニバル軍を追跡し続けます。

夕刻まで戦闘を続け、退却する。夜明けと同時に進軍し、ハンニバルを追いかける。ハンニバルが朝起きると、マルケルス軍が武装を整えて先陣を張っている・・・。

ローマ軍が負ければ「勝てば許す、明日も戦うぞ、負けた兵士には家畜の餌を食わせる」と言って追撃を続行する・・・。

このようにしてマルケルスはハンニバルを攻撃し続けました。

 

 

 

3.ハンニバルは「盾」を尊敬したが「剣」を嫌った

このような勝ち負けに関係ない戦いぶりにハンニバルは、
「ファビウスは教師だが、マルケルスは敵だ!」と嘆きました。

 

これほど勝利を挙げているのに、あの男を追い払わない限り息をつく暇もない。
しかしどうしたものか。
勝ち負け関係なくあの男と戦いぶり、
あいつは勝てば勝ったで奮い立ち、
負ければ負けたで恥を注がんと立ち上がる

 

また、マルケルスの部下曰く、「ハンニバルと戦って負傷するより、マルケルスの言葉の方が堪える」と震えていたそうです。

ところがマルケルスの死は唐突に訪れ、紀元前209年に、戦死しました。

ハンニバルはマルケルスの死を喜ばず、粛々と遺体を飾って火葬しました。遺灰は彼の息子に届けられる道中で散ってしまい、骨壷だけが送られました。

 

 

4.スキピオがハンニバルを追い出す

ハンニバル戦争で、最終的にハンニバルを破った将軍の名を「スキピオ・アフリカヌス」といいます。スキピオは紀元前210年にスペインで指揮を執り、206年に同地を完全に征服しました。

その後、彼はファビウスの反対を押し切って単身で北アフリカへ渡り、現地のカルタゴ軍を撃破しました。

これを受けて、本国は慌ててハンニバルに帰還命令を出します。要は、ピンチだから帰ってこい!とお願いしたのです。

ハンニバルはファビウス、マルケルス、数多くのローマ軍を相手に孤軍奮闘しましたが、最後はカルタゴ本国に召還されるという形で、イタリアを出立しまいた。

ハンニバルは去り際に、

 

いやはや驚いた。これまで援助物資や金を送ることすら禁じていた連中が、恥を忘れて私の助けを求めてくるとは。
私の敵はカルタゴ議会であって、ローマ軍ではなかったらしい。
ローマ軍と戦うたびに勝ってきたが、私の帰還を聞いて喜ぶのはスキピオではなく、カルタゴ人だろう。

スキピオと戦うことはなかったが、今やアフリカを攻めている。私はカンナエやそれ以外の戦いで10万人以上屠ったが、この地でおいさらばえた。

 

 

と涙を見せたそうです。

 

 

5.ザマの戦い

第二次ポエニ戦争で最後の戦いはチュニジアの北部にあるザマと呼ばれる場所で行われました。カルタゴ軍は約5万人、そのうち古参兵が15000人。
対するスキピオ軍は4万強と互角の戦いでした。しかしハンニバル軍にはカンナエの勝利を支えた騎兵が不足していました。
スキピオに寝返るか、倒されるかしてしまったのです。

 

ハンニバルは、

 

これまでローマ軍と交えた数々の戦いを思返すがいい。
我々はこれまでに何度も勝利を重ねてきたが、
諸君が相対するのはそれらの戦いで敗北した者たちである。
諸君と私が勝ち得た名誉に泥を塗ることは許さない。
むしろ有望な戦いぶりを見せて、
不敗の戦士という名声を守り、継ぐことが君たちの務めである!

 

 

と激励しました。

戦闘が始まると、ハンニバル軍が優勢に見えましたが、35000人の新兵が総崩れしてしまいます。

ハンニバルは最後尾に配置した古参兵を投入しましたが、最後はハン二バルがカンナエで展開した戦術を、そっくりそのままスキピオが展開て殲滅されました。

彼の兵士は2万人が戦死しまし、同数が捕虜となりました。
そしてハン二バルは僅かな兵士を連れて戦場を脱出します。

 

このようにして、第二次ポエニ戦争は決着しました。

「のろま」がハンニバルを追い詰め、「脳筋」が作戦を実行し、スキピオに敗北したのでした。

 

 

同時代の歴史家であり、軍隊の指揮経験のあるポリュビオスは、

 

あの時のハンニバルのように全く異なる言葉を話す部隊を用いて、
あれほど立派にスキピオ軍に対する会戦を組み立てることは誰にもできないだろう。
スキピオ軍を破るのは非常に困難であったにも関わらず、ハン二バルは力が及ぶ限り、状況に応じて誰も彼を凌駕できないくらい上手に、自分の処置を適合させたのである。しかし、

勇敢な人は更に勇敢な人に会う。

まさにこれが、ハンニバルに関して起こったと言えるだろう。

 

と書き残しています。

細川美優