前世はイタリアのトラメジーノ湖で戦死したと確信しているBYRSAM代表の細川です。

 

紀元前218年に始まった第二次ポエニ戦争において、ハンニバル軍が順風満帆のように見えましたが、3人の将軍の活躍によって戦局は大きく変わりました。

「のろま」とあだ名された将軍ファビウスは略して「ハンニバルと戦わずに、自滅を待とう」作戦を展開し、ハンニバルは紀元前216年以降、得意の会戦を封じられてしまいます。

ハンニバルから名指しで嫌われた将軍マルケルスはファビウスの作戦を忠実に実行し、少しずつハンニバル軍の戦力を削ぎ、

スキピオ・アフリカヌスが紀元前203年のザマの戦いで華々しい戦果を挙げたハンニバルの作戦を再現し、決定的な勝利をおさめました。

かくしてハンニバルは負けを認め、ローマと和平条約を結びます。
ところが、その内容はハンニバルの祖国カルタゴにとって非常に厳しいものでした。


 

  

1.厳しい和平条約

 

戦争に敗れたカルタゴは、非常に厳しい条件で和平条約を結ばされました。その中で最も重要なものを挙げます。

 

①10隻を残す全軍艦を引き渡すこと
②スペインの支配権をローマに渡すこと
③アフリカ外のいかなる民族とも戦争しないこと。アフリカ内部でも、ローマの承認なしに戦争しないこと
④銀1万タラントを50年賦で支払うこと
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元来、カルタゴは商業を中心にして発展した海洋国家でした。そのため、軍艦の剥奪は海洋国家としての矜持を没収されたことと同義でした。
また、カルタゴは防衛戦争すらも禁止されてしまったため、文字通りの骨抜きにされてしまいます。
そして何よりも、銀1万タラントの賠償金は非常に厳しいものでした。
タラントは重さを表す単位です。第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは1320億金マルクの賠償金支払いを命じられますが、当時のドイツにとって天文学的な数字でした。

カルタゴの銀1万タラントの賠償金も、当時の地中海世界において前例のない高額な賠償金でした。

 

2.ハンニバルは政治手腕も高かった

 

当然カルタゴは、戦争で疲弊し、制海権も、稼ぎ頭だったスペインの銀山も失って呆然としました。

カルタゴの議会はどうやって賠償金を支払うのかについて紛糾し、当然ハンニバルへ批判の言葉が投げられます。

それに対してハンニバルは「なぜ、武器や軍艦を取り上げられたときに諸君は泣かなかったのか?諸君は自分の財布からお金を取られて涙を見せた。これを笑わずにいられようか」と嘲笑しました。

この後、ハンニバルは国家財政の復興を担当しました。

終身制だったカルタゴ版の内閣を1年任期にし、
納税システムを整備して、復興税を富裕層のみに適用させました。

また、和平条約の適用外の商業ルートの開拓も行います。

このハンニバルの施策は成功し、50年賦の支払いをわずか5年で完済させてしまいます。

流石のローマ人もびっくりし、「条約通り、50年かけて払え!一括返納は認めない!」と返しました。

 

 

3.大カトーと「カルタゴ滅ぼすべし」

 

紀元前153年、ローマで最も偉い大カトーと呼ばれる政治家がカルタゴを訪れました。 

ローマ史においてはしばしば「大カトー」「小カトー」のような大と小表記があります。これは同じ一族から、優れた業績を挙げた者を輩出した際に使用されます。

先に功績を挙げた人に「大」、後に挙げた人に「小」をつけて区別しています。

当時のカルタゴは隣国からの領土侵犯に悩まされていました
隣国の言い分としては「正しい意味でカルタゴの領地は牛皮の丘だけで、それ以外の土地は私たちから不当に奪った土地だ。だから私は、先祖の土地を取り戻しているに過ぎない」というものでした。

カルタゴはこのような言い分の紛争に30年間悩まされ、大カトーは領土紛争を仲裁するためにカルタゴへ訪問します。

しかし、実際にカルタゴへやってきた大カトーは、なんら解決せずに帰国しました。
それどころか、大カトーは紀元前153年以降「カルタゴ滅ぼすべし」を唱えるようになります。

 

大カトーは第二次ポエニ戦争を戦い抜いた生き証人でした。

戦後のカルタゴは海外領土を失い、莫大な賠償金を支払うことになりますが、ハンニバルの改革によって50年かけて支払うはずの賠償金を5年で完済するほどの復興力を見せます。

そして、大カトーが復興したカルタゴを目の当たりにしたのが紀元前153年。新鮮なイチジクを持ち帰り、「これほど素晴らしいイチジクを生産している国が、船で3日の距離にある」と言い、「であるからして、脅威を排除するべきだ=カルタゴを滅ぼすべきだ」と主張しました。

4.「海」を取り上げられる

 

いくら大カトーに影響力があると言えども、ローマは法治国家です。司法の観点で、カルタゴがなんらかの条約違反をしない限りは滅ぼすなど不可能でした。

実際に、同時代人の歴史家ポリュビオスは「まーたあの爺さん言ってるよ〜。無理に決まってんだろ〜〜〜」と誰しもが思っていたと記しています。

ところが、隣国との領土紛争に耐えかねたカルタゴは紀元前150年に軍事行動を起こしてしまいます。

これを口実にローマは戦争の準備を始め、宣戦布告しました。

青ざめたカルタゴはすぐさま弁明の使節を派遣しました。ローマの態度は横暴で、「ローマを喜ばせよ」と言うだけでした。

ローマは2人の将軍に「カルタゴを破壊するまで、戦争を続行せよ」という密命を与え、北アフリカへ進軍を開始します。

宣戦布告を受け取ったカルタゴは、2人の将軍の元へ使節を派遣しました。すると、彼らは条件を提示します。

 

 

まず、「30日以内に貴族の子供300人を、人質としてローマに送ること」
カルタゴは言われた通りに人質を送りました。

次に、「もし平和を望んでいるならば、市内にある武器を全て引き渡すこと。平和を望むなら武器など必要ない」と言いました。
カルタゴは反発するものの、これで許してもらえるだろうかという望みに縋りながら、20万人分の完全武装の装備と、無数の武器を引き渡しました。

そして最後に、「汝らは海から15km離れた場所に移住すること。お前たちは海があるから罪を犯す。よって、汝らは内陸に移り住み、我々はこの都市を破壊する」と言いました。

あるものはローマ人の不信義に怒り、あるものは発狂しました。

 

 

 

5.第三次ポエニ戦争

 

ローマ軍はその日のうちに宣戦布告しました。最早、都市の命運が尽きたカルタゴは全ての奴隷を解放し、あらゆる聖域を武器を作る作業場に変え、女たちは弓矢や投石器の弦を作るために髪を切りました。

武器が何もない状態から始まった第三次ポエニ戦争は、3年にわたって続きます。8万を超えるローマ軍との包囲戦に、カルタゴ人は3年間も耐え抜いたのでした。

しかし、補給路を経たれたカルタゴはじわじわと劣勢になり、紀元前146年春、ついに限界を迎えます。

第二次ポエニ戦争でハンバルを破ったスキピオ・アフリカヌスの子孫である小スキピオが、カルタゴのカルタゴの城門を破り、7日かけて市内を完全に制圧しました。

死体も生者も関係なく穴に埋められ、ある者は首だけ地上に出して馬に踏み殺されました。

 

そしてカルタゴの指揮官は小スキピオに投降し、その夫人は子供を両脇に抱え、

 

なぜ、あなたは恥知らずにも自分を信用している市民を投げ出して、敵に命乞いをするのか。そうして嘆願の枝であるオリーブを携えて、敵の横に座っているのか。
あなたは燃える祖国を太陽と一緒に見ることはない、守り抜くと約束したではないか。
恥知らずなあなたに裏切られたこの都が、名誉ある形で終わることを望みたい。

 

と言って、炎の中に飛び込みました。

そして、この光景を目の当たりにした歴史家ポリュビオスはこのように書き残しています。

 

 

スキピオはすぐに私(ポリュビオス)の方を振り返って、右手を掴んだ。
「ポリュビオスよ、確かに美しい。けれども私は恐れている。理由はわからない。けれども、いつか私たちの祖国もこのようになるのではないかと思うのだ。カルタゴは滅びた。アレクサンドロスの大帝国も、ペルシアも滅びた」
そして、小スキピオの口から、ふとホメロスの詩が漏れ出た。
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いつかその日が来るだろう。
聖なるイリアスも、
プリアモスの長いトネリコの槍を携えた民も滅びる日が。

 

かくして、カルタゴは地上から滅ぼされてしまいました。
10日間にわたって燃え続け、建国から668年後、灰となって消えてしまいました。

 

細川美優