イスラーム教はユダヤ教、キリスト教に並ぶ世界三代宗教の一つですよね。
それぞれの宗教は異なるように見えながらも、実際には同じ宗教をルーツにしています。
そのため、イスラーム教でもユダヤ教・キリスト教と同じ世界観を共有しています。
例えば、アダムとイブの失楽園、ノアの方舟、モーセの出エジプト記です。
しかし同じ宗教をルーツにしているのに、なぜイスラーム教が成立したのでしょうか?
それはイスラーム教において「無明時代」と呼ばれる500年代のアラブ社会が大きく関係していました。
今回は、なぜイスラーム教が成立したのかについてお話ししたいと思います!
Contents
1.アッラーは「数多くいる神様の一つ」
創世の時代。かつて人類の祖アーダム(=アダム)とハウワー(=イブ)は禁忌を破ったことによって楽園を追放されてしましました。
2人は放浪の末、アラビア半島に辿り着き聖殿を建て、最後はアッラーに罪を許されました。
彼らが建てた聖殿は預言者ヌーフ(=ノア)の時代に、大洪水によって消失してしまいます。
これを預言者イブラヒム(=アブラハム)が再建しました。この聖殿のことを「カアバ神殿」と呼び、現在のメッカに位置します。
カアバ神殿は元々、アッラーを祀る神殿でした。
しかし、時代とともにアッラーの信仰は「数多いる神様の一つ」に過ぎず、カアバ神殿には日本と同じ自然崇拝に基づいた神々の像が安置されるようになります。
このカアバ神殿を目指して西暦500年代のアラブ人は巡礼し、メッカは栄えました。ところが当時のメッカは人々は享楽に溺れて退廃し、貧富が拡大している場所でした。
2.イスラーム教成立以前のアラブ社会:ジャーヒリーヤ
聖地メッカへの巡礼はイスラーム教独自の文化ではありません。
元々、アラブ社会にはメッカへ巡礼する伝統があり、各地から訪れる巡礼団によってメッカは栄えました。
栄えたといえば聞こえがいいかもしれませんが、その実態は享楽におぼれる退廃的な風潮と、貧富の拡大でした。
現在のイスラーム教では飲酒が禁じられていますが、当時のアラブでは酔っ払いによる喧嘩は日常茶飯事で、この喧嘩が発展して戦争になることもしばしばありました。
これは当時のアラブ人部族の掟によって生じるものでした。
イスラーム教成立以前のアラビア半島には統一国家がなく、ダマスカス、エルサレム、バグダート、メディナやメッカといった各都市はそこを支配する部族の掟によって統治されていました。
メッカを統治していたのはクライシュ族と呼ばれる部族で、イスラーム教の創始者ムハンマドはその一族の出身でした。
部族にはそれぞれの構成員を保護する役割があります。もし、喧嘩のような形で他の部族を害するとその部族全体を侮辱したことになり、最悪の場合、部族間の戦争に発展することになるのです。
この各部族の掟が機能すれば暴力への抑止力となりますが、公的機関が存在しない当時のアラブ社会においては泥沼の争いに発展する危険性を帯びていました。
弱小部族や奴隷、部族の保護を何らかの理由で取り消されたものは殺されてもおかしくなく、それについて文句を言うことはできませんでした。
更に男系の部族社会だったため、女児を嫌って生き埋めにする風習もありました。
3.「正直な者」とあだ名されたムハンマド
ムハンマドはメッカの支配者一族の家に生まれました。西暦570年のことです。
生まれた頃にはすでに父親は亡くなっており、6歳の頃に母親を亡くしてしまいますが祖父に引き取られて、すくすくと育ちました。
そんなムハンマドは周囲から「アミーン=正直者」とあだ名されるほど実直な青年に育ちます。
その後ムハンマドは自身より15歳年上の裕福な女性商人のもとで働き、彼女と結婚します。
40歳になったムハンマドはメッカの退廃に心を悩ませ、たびたび洞窟で瞑想していました。ある時、ムハンマドは天使ジブリース(=ガブリエル)から啓示を授かります。
しかし、これを受けてムハンマドは預言者と自覚するどころか、あまりに突然の出来事すぎて恐れ慄いてしまいました。
ムハンマドは震えながら、
あなたの主を讃えなさい。また、あなたの衣を清潔に保ちなさい。不浄を避けなさい。見返りを期待して施してはならない。あなたの主のために耐え忍びなさい。ラッパが吹かれる時、その日は苦難の日。不審者たちにとって、安らぎのない日である
と啓示を語ります。
翌日、妻はキリスト教徒の従兄弟に相談しました。
するとその従兄弟は「天使ガブリエルに違いない!君の夫は預言者になったんだよ!おめでとう!」と祝福しました。
妻は震えるムハンマドに預言者になったことを伝え、こうして預言者が誕生しました。
本当に我は、クルアーンを下した。
その夜、天使たちと精霊は主の許しのもとに、全ての神命をもたらして下る。暁のあけるまで、それは平安である。
4.弱者に厳しいアラブ社会の変革
退廃したメッカ、掟から保護されない弱者、そして生き埋めにされる赤子たちに心を痛めたムハンマドは、預言者として近親者から布教を始めていきました。
まずムハンマドの大親友が入信すると、彼の繋がりからイスラーム教を信仰するムスリムの輪が広がり出しました。
やがて若者たちが成立したばかりのイスラーム教の中核を担っていきます。
しかし、当然ムハンマドの活動を快く思わない者たちがいました。
彼らはムハンマドを彼の部族の保護を取り消すよう求めますが、彼の保護者であるアブー・ターリブが「ムハンマドが何か悪事を働いているわけではない」としてこれを棄却しました。
イスラーム教の普及の要因に、「言葉の美しさ」が挙げられます。
アラブの部族は言葉の価値を重んじる社会であり、それは部族同士の争いをお互いの詩人の優劣で競わせるほど重要視されていました。
そのため、ムハンマドが授かった啓示の言葉は、我々日本人が想像する以上に絶大なものでした。
個人的にイスラーム教の礼拝は歌だと感じており、ときに美声な者は重宝されると聞いたことがあります。もしかしたら「歌が上手い人がチヤホヤされる」そんな感覚に近いかもしれません…
5.アラブ社会のあり方への批判
急速に広まるイスラーム教を人々は詩人や占い師の言葉と言って批判しました。
これは詩人の言葉ではない。だが、あなた方はほとんど信じない。
また、占い師の言葉でもない。
しかしあなた方はほとんど気にもしない。
これは万有の主から下された啓示である。
しかし、当時のアラブ社会ではユダヤ教とキリスト教は「数多くいる神様の一つ」と認識されていました。この二つの宗教から派生したイスラーム教が、なぜ今になって批判されるのか。怪しげな新興宗教として、ムハンマドの部族の保護を取り消すよう求めるほど、問題視されたのでしょうか。
それは、今までユダヤ教やキリスト教が時代も地域も異なる宗教であり、外国語で綴られた物語だからです。
当時のアラブ人にとって馴染みのない異国の話でしかすぎなかったものが、突然身近なアラビア語になって語りかけてきたのです。その上、アーダムやハウワーの物語だけでなく、自分たちの価値観を戒めるような内容だったので、拒否反応が出るのも当然でした。
例えば、悪質な商売への戒めとして
禍なるかな、量を減らす者こそは。彼らは人から計って受け取るときは十分にとり、相手に渡す量や重さを計るときは少なく計量する者たちである
また、アッラーは金や権力に執着することを批判し、喜捨を推奨しています。
享楽に就いていたことを、必ず問われるだろう。
とはいえ、アッラーは決して俗世感を否定したわけではありません。過度な欲望によって他者を苦しめ、それに気づかない人間を批判しているのです。
それだけ、当時のメッカは貧富の差が拡大し、弱者に厳しい社会となっていたのです。
また、アッラーは部族の悪習も諌めました。
生き埋められていた女児が、どんな罪で殺されたのかと問われる時。
幼児殺しの風習を完全に否定したことは、当時のアラブ社会では革新的だったのではないかと考えられます。
確かにその宗教も黎明期は怪しげな新興宗教として批判されます。しかし、キリスト教やイスラーム教、その他宗教でも今でこそ時代錯誤な教えもあるかもしれません。
しかし、「当時それが社会問題だったから、教えという形で禁止している」側面は少なからず存在します。
6.迫害されるイスラーム教徒
ムハンマドは預言者になっても良き家庭人として生活しました。自身を神格化するような動きを徹底的に否定し、人間としてアッラーの言葉を人々に伝えました。
キリスト教においてはイエスは神の子ですが、ムハンマドは我々と同じ人間です。
それが、当時の若いアラブ人から支持を得た理由の一つだと考えられています。
当然、信仰が拡大することによってイスラーム教徒であるムスリムたちは迫害を受けるようになります。
あるときは部族の掟に従って家族全員を処刑されたり、ムハンマドの保護者の死によって保護を取り消され、移住を余儀なくされたりしました。
ムハンマドが布教を始めて十余年、彼らは各地に移住を始めました。
ある者は当時キリスト教国だったエチオピアに逃れて丁重に保護され、ある者は北部のヤスリブという都市に移住しました。
ムハンマドは西暦622年にヤスリブに移住し、この年をイスラーム暦の元年として定めました。
ヤスリブはユダヤ教とキリスト教が信仰されている街で、イスラーム教はヤスリブ市民にとって親しみやすい宗教でした。
これほどまでにイスラーム教が受容された背景の一つとして、ヤスリブが泥沼化した部族間抗争に辟易しており、これを終わらせる新しい体制を求めていたという事情もあります。
やがてヤスリブでイスラーム教発のモスクが建設され、「部族」によらないイスラーム教を信仰する者たちの共同体を作り始めていきます。
やがてヤスリブは「マディーナ(=預言者の街)」と呼ばれることとなり、そしてイスラーム法が成立しました。
7.イスラーム法の成立
ムハンマドによって抗争が収束したマディーナでは、新たな街づくりが始まりました。それはイスラームの理念による再生です。つまり、これまで部族の掟によって統治されていた町をイスラーム法によって管理運営していくことを意味していました。
「部族の掟」という形骸化されたものによって統治されていたアラブ社会にとって、法による統治は非常に革新的なものでした。
イスラーム法の規定で有名なのは、食事に関するものですよね。
しかし善行に励めば、最後の審判ののち美酒が与えられます。
そのほかに例を挙げると、イスラーム法では意外と離婚が認められています。
それ以外にも相続に関する法律や、貧者や困窮者への施しの推奨などがあります。
そしてマディーナ憲章によって信仰の自由が認められ、盗みや殺人を禁じる刑法が成立しました。
8.聖戦:ジハード
西暦624年、ムハンマドはメッカのキャラバンを襲撃し、戦争が始まりました。1000人のメッカ軍に対して、300人の軍団で勝利を挙げました。その後も犠牲者を出しながらも戦いは続き、630年にメッカ側が降伏して戦争が終結しました。
ムハンマドは、敵対してきた者達に当時としては極めて寛大な姿勢で臨み、ほぼ全員が許されました。そしてカアバ神殿に安置されていた異教の神像はムハンマドの手によって全て破壊されました。
そしてメッカを信仰の中心地として、マディーナを共同体の指揮を執る街として定められました。
その後もムハンマドはアラビア半島の征服を続けて統一し、北アフリカに至るまで版図を拡大し続けています。
イスラーム教は武力によって信仰を押しつけたイメージを持たれがちですが、実際には信仰の自由は認めています。
一神教の中では極めて寛大な宗教で、キリスト教とユダヤ教に関しては税金を払えば彼らの安全が保障されていました。
1200年代半ばにムハンマドが興したアッバース朝はチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国に滅ぼされてしまいますが、モンゴル軍の多くがイスラーム教に改宗しました。
そして西暦632年にムハンマド最後の巡礼が行われ、
あなたの主の栄光を褒め称え、また御許しを讃え。
本当に彼は度々赦される御方である。
そのとき、各人が稼いだ分に対し精算され、誰も不当に扱われることはないであろう。
と語りました。
そして、西暦632年6月8日ムハンマドは死去しました。
9.まとめ
以上がクルアーンの内容になります。
イスラーム教はユダヤ教とキリスト教をベースにした宗教でありながらも、当時の退廃したアラブ社会を良くすることを目的にした宗教だったと言えるかもしれません。
貧富の拡大、幼児の生き埋め、部族の保護から外れた弱者、これらの救済の手段がイスラーム教であり、個人の気分に左右される「部族の掟」ではなくイスラーム法で統治することは非常に画期的でした。
そしてなぜイスラーム教が支持されるのか。それはやはり、ムハンマドが神や神の子ではなく、家庭を大切にする等身大な預言者だからかもしれませんね。